倫理的であること

2001年9月11日以降、米国の一方的な戦争が始められ、世界がおかしな方向に動き始めた。同じ年、1月に南米ブラジルのポルトアレグレに集まった人びとの集まりがその後、世界の注目を集めることになる。

世界社会フォーラム、世界各地の民衆運動が情報を共有し、経験を交換することで新しい動きが生まれていった。参加型予算、連帯経済、アグロエコロジーなど人びとが主体となったさまざまな動きが世界に作られていった。その後、南米には次々に進歩的な政府が成立し、さらにその動きに期待が集まった。

この動き、ブラジルの中の動きを遡っていくと、1993年の反飢餓運動(Campanha contra Fome e pela Vida、飢餓に反対する命のためのキャンペーン)、さらに遡ると1992年のMovimento pela Ética na Políticaに遡ることができる。この運動は当時のコロル政権の汚職に対して、その責任を追及しようと生まれたものだった。

Movimento pela Ética na Políticaを訳せば「政治における倫理を求める運動」。当時、リオデジャネイロのIBASE(ブラジル社会経済分析研究所、ブラジルのNGO)でその言葉を聞いた時、どうも自分にはしっくりこないものを感じ、それほどの興味を感じなかった。なぜなら「倫理」という言葉は体制派的な価値観で使われる言葉という印象を持っていたからだと思う。日本では国家主義的な価値観を押しつける時にこの言葉が使われていた。人の思想だけでなく、生活、習慣までも国家的な価値観を押しつけることに対する反感を僕は持っていた。

しかし、このMovimento pela Ética na Políticaは歴史的な成果を上げる。当時のコロル大統領が汚職追及に対して、市民に対して自分への支持を表明するために黄色と緑のブラジル国旗の色の服を着て町に出てほしいと呼びかけた。これに対してMovimento pela Ética na Políticaは黒い服を着て町に出よう、と呼びかけ、町は黒の服で埋まった。圧倒的な民意の発露でコロル大統領は弾劾された。

コロル弾劾の後、Movimento pela Ética na Políticaはその後、民主主義と飢餓は両立できないとして反飢餓キャンペーン(飢餓に反対する命のためのキャンペーン)を立ち上げる。そしてこの運動は有名人はほとんど全員が参加、ブラジル人社会のほとんどが認知し、町中にグループが結成され、ブラジル史上例のない数の人が参加する巨大なキャンペーンになっていった。

「すべての政治は倫理を持っている。それぞれの倫理はその特有な政治を生み出す。しかし、ブラジルでは政治と倫理が分離してしまった。ここでは政治は汚職であり、政治家は腐敗している。…権力においてはすべてに価格がある」
(“Um abraço Betinho” 43ページ)

ひるがえって日本を思う。原発は再稼働する、という。その理由は原発なしにはなりたたないからではなく、原発稼働させてお金を儲けたいから。あるいは核武装のために必要だから。それによって生み出される犠牲者は隠し続ける、これが現在の日本の政治だろう。表向きの理由は別に用意されているが、それは本当の理由ではない。

原発政策に限らないが、公式に表明される根拠付けの言説とその実際が乖離している。原発政策に留まらない。農業政策も医療政策もそこに大企業の利益が見え隠れしているにも関わらず、国会での説明はそれとは違う。これは腐敗でなくて何なのだろう?

原発はそもそも不十分な技術で、原料であるウラン採掘から使用済み核燃料の処理まですべてのプロセスにおいて汚染が生み出され、さらに東電原発事故のように巨大な危険がつきまとう。その操業のためにはすべてのプロセスにおいて情報操作と犠牲となる住民の人権無視が必要となる。その実態を示せば存在そのものの非倫理性が明らかになる。

原発を多数建設し、災害対策も十分取らなかった勢力が再び政権に就こうとしている。その責任を求める声は市民社会からは上げられているが、それはもみ消されようとしている。政策のAかBかという議論にもみ消されようとしている。

こうした政策の選択のみを議論している限り、肝心なことはすり抜ける。潜在的には誰もが感じているはずの政治不信はこの点を政治がすり抜けている限り、決して克服されることはないだろう。

日本社会は倫理が奪われたままなのだ。倫理を奪われ、効率性、「現実性」のみの観点からの政策論争がなされてきた。しかし、その議論は社会の発展にはつながらない。なぜならば根本の倫理が不在だから。

別の言葉を使って語ることもできるかもしれない。国外での市民社会ではJusticeという言葉が重要な役割を果たしている。この言葉はそのまま訳せば正義だろう。でもこの言葉は日本語では使いにくい。正義というと「正義をかざして…(悪いことをやる)」という語感すら感じてしまう。戦前のファシズムのトラウマが原因だろうか。常に翻訳に戸惑う言葉だ。

倫理も正義も使えない、となると政策論争は自ずと効率性の議論になってしまう。そしてその効率性の議論は情報の操作がいくらでも可能であり、世論はごまかされる。倫理や正義という言葉自体ではなく、倫理や正義を問うという行為が重要だ。

社会を傷つける政策が正義でありえるはずがなく、倫理的でありえるはずがない。

今後、憲法改悪、インターネットなどの自由の規制の懸念が高まるかもしれない。しかし、恐れることはない。倫理的でない規制は認めてはいけない。服従すべきは倫理であり、正義であり、規制ではない。

ブラジルの民衆運動は政治が倫理的であるかを問いただした。その必然的結果として反飢餓運動が大きく膨れあがり、その後の社会変革へと結びついていく。

倫理とは権力を持つもの、強い立場にいる者の価値観から来るものではなく、社会の個々の構成員の尊重であり、それ以外の何者でもない。

今、日本の政治に問う。そこに倫理はあるか、正義はあるか? 正義を取り戻してこそ、日本社会は現在の不幸な状況を乗り越えられる。

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