JCA-NETワークショップ ネットの力をフルに使いこなそう報告

8月2日 JCA-NETワークショップ「ネットの力をフルに使いこなそう!」が開かれ、小倉利丸さんの司会のもとで講師を務めさせていただきました。

話した内容については以下のプレゼンファイルを参照していただければと思いますが、参加型の運動を作っていくためにも、Twitterなどのソーシャルネットワークツールを活用してメッセージを広げ、それと同時に自分たちのサイトやオンライン活動、オフラインの活動に連動し、さらにそれがメッセージを広げることになるという循環・サイクルを作ることの重要性をまとめたものです。

Twitterだけではだめだし、Webサイトだけでもだめ、さらにはバーチャルなものだけでもだめ。肝心なのは連動であり、統合だということです。

(プレゼンファイルはMacのKeynoteというソフトで作ったもの。Keynote持っている人は少ないということで、マイクロソフトのパワーポイント形式に書き出したもの、PDFファイルも用意しました。しかし3つのファイルのどれかをダウンロードするよりも、最後のQuickTimeのMovieを見るのが一番てっとり早いかもSlideshareを見るのがてっとり早いかも)。

なかなか実例として紹介できるものでこれは、というものがなく、その点、苦しいところがあります。

追記8月7日 slideshare にアップしました。プレゼンファイル (Slideshare版)

プレゼンファイル(Mac Keynote版 3.1MB)
プレゼンファイル(Microsoft PowerPoint版 3.7MB)
プレゼンファイル(PDF版 7.1MB)
プレゼンMovie(QuickTime 4MB)

なかなか突っ込んだ質問ばかりで答えに窮することが多く、考えさせられました。

即答できなくても、重要な論点だと思うので、今後とも常に頭に入れて、考えていきたいと思います。

以下、質問の一部と、とりあえず返答できることをまとめてみました(会場で言い切れなかったことも入っています)。


問: TwitterのTweet数は日本語は英語に次ぐ数で、米国をも上回る数だが、一方で、海外と連携しているケースは少なく、孤立してしまっていると思うが、どういう解決策があるか?

日本の市民社会の問題を海外に知らせていく、という点ではかつてAMPOという英文雑誌があり、PP研もJaponesiaという英文雑誌を発行して、知らせていたが、それも現在止まってしまっている。いくつか個別の運動で英文での情報発信をしている他は、海外の人たちにとって、日本の情報はマスコミが出す情報で知る他ない。

Twitterを使う際、日本語で数多く書いてしまうアカウントを日本語がわからない人がフォローするケースは少なく、その場合、言語ごとにアカウントを作って書いていくことが望ましいだろうが、そうした場合の手間はかなり大変なものになっていく。個人的にも英語とポルトガル語のアカウント、それから日本語と英語で交互で書くアカウントを日本語の他に作っているが、日本語以外はほとんど書けていないのが現実(これは外国語力のなさもあるが)。

外国語での情報発信は個人のレベルではできることが限られると思うので、組織的に外国語で情報発信していける体制を考えていく必要があるのではないだろうか?

問: 今後、都知事選などが迫ってくるが、Twitterは力を発揮するだろうか?

多くのフォロワーを持つ場合、せっかくそのフォロワーからのインプットが来ても、何も反応がなければ、フォロワーの気持ちも萎えてしまうだろう。

参院選でTwitterを使った市民運動に近い人たちの共通点はみな、一人でやっていること。これだと到底、多くの市民からの声に反応するのは無理になってしまう。

たとえば、スタッフの側がフォロワーからのメッセージを読んで、これは事務局が答えられるもの、これはどうしても本人から返事をしてもらった方がいいもの、というように振り分けしていけば、かなり有効に使えるだろう。

Hootsuite(http://hootsuite.com/)のサービスにはこうした1つのアカウントを複数の人が使って共同で対応していくための機能が盛り込まれている。「この件はAさん、返事してね」とかアサインすることができて、その内容はメールで伝わる。そのメールで受けたAさんが返事をすると、Aさんの返事がみなに共有される。

これは市民運動団体で組織として使うアカウントを使う時にも使える方法なので、ぜひ、検討してみてほしい。

問: Twitterは140文字しか書けない。小泉流のワンフレーズポリティクスになってしまうから使うべきではない、という意見があるが。

そういうことを言う人は使わずに言っていると思う。実際に140文字で表現できることはかなりある。新聞の見出しでも140文字のような長文の見出しはない。その見出しから自分のブログにURLを張って読みに来てもらえれば長い文章でも十分書ける。

もちろん、その見出しだけ読んで、リンク先の記事は読まずに曲解してつっかかってくる人はいる。僕も野中広務・辛淑玉『差別と日本人』の書評を書いたら、書評を読みもせずに、野中を持ち上げるとは何事だと書いてきた人がいた。

それはしっかり読め、というしかないし、それ以上のものではない。しかし、長く書けるから、大丈夫というのもあやしい前提だと思う。メーリングリストではかなり長文書けるけど、その長文は本当に読まれているだろうか? 斜め読みして決めつけて議論してしまえば同じこと。

Twitterを使ったから短絡的な発想になるということはないと思う。

問: Twitterは米系営利企業の無料サービスであるので、それを市民運動が使う際に気をつけるべきガイドラインはあるか?

非営利団体に向けたガイドブック的な情報はいくつかある。

The DigiActive Guide to Twitter for Activism

50 Social Media Tactics for Nonprofits

でも、まだ日本ではこうしたものはまだ作られていないのではないか?

Twitterは国境の壁を越えて、問題意識を共有している人たちのネットワークを作るのにすぐれたツールだと思うが、残念ながら米国の営利企業のサービスなので、その点を十分に考えなければならないと思う。

たとえば、日本でもまぐまぐとか営利企業が無料で提供しているサービスがある。まぐまぐでメールマガジンをやったとしても、誰が講読してくれているか、そのメルマガの発行者すら知ることができない。もし倒産とかでサービスが止まれば、いくら講読者を苦労して獲得していてもその成果はすべて泡に消えてしまう。

Twitterも似たところがあり、相手のTwitter IDはわかるが、メールアドレスまではわからない。だから気軽にフォローしたり、されたりすることができるのは利点だが、もし、Twitterがサービスを停止してしまえば、いくらIDを記録してあっても、それは意味を失ってしまう。ネットワークをせっかくTwitterで広げてもそれはTwitter次第ではいつ失うかわからない。

それではTwitterは使わない、という選択になるのかというと、それも賢い選択とは思えない。Twitterを使えば効率よく、ネットワークを広げることができるわけだから、使わない手はない。しかし、Twitterで終わることなく、可能な限り、独自のネットワークを発展させていくことが決定的に重要だと思う。

Twitterはヤドカリの宿のようなもので、自分のネットワークを発展させるために借りる一時的な宿に過ぎないと思う。別の宿ができれば、それに移ることもありうる。

シナリオは全く存在しないので、どういう形が可能か、やってみるしかないところがある。

問: 営利企業のサービスに対して、オープンソースなSNSはないのだろうか?

Twitterに類似したオープンソースのものもすでにあるのかもしれないし、OpenPNEのようにすでに発展しているオープンソースのSNSも存在している。

だから、特定の領域でそうしたSNSを活用していくことは可能だと思う。

ただ、Twitterのような全世界で展開されているSNSを非営利ベースで運営することはスケーラビリティなどの点でまず無理だろうと思う。

TwitterほどのSNSが魅力を持つためには多くの人が参加する必要があり、そのスケールを支えることは非営利ベースでは困難だ。Twitterはベンチャー企業として始まり、Googleやマイクロソフトの検索エンジンにTwitterのデータベースを接続させるところで巨額の収入を得ることができるようになっているが、そうしたインフラを支えるだけの収入を作らないと維持ができないだろう。スケールの必要な部分は非営利セクターは無理をせずに営利セクターのサービスを使うことになるのではないだろうか?

オープンソースの活用は市民運動としては今後もより重要になると思う。

問: FacebookとTwitterの違いはどうだろうか?

Facebookについてはまだ語れるほど経験が僕にもない。今の状況ではTwitterの方が反応がいいため、費用対効果はずっと高い。Facebookが効果的になってくるのは、今年の末くらいからだろう。

海外ではFacebookに一日浸っているような生活をする人が増えてきている。だからFacebookの中に市民運動も企業も入っていかないと人びとの支持を得ることが難しい。Twitterのようなテキスト情報だけでなく、音楽などマルチメディア的な展開がしやすいのがFacebook。

問: Facebookを使う際に気をつけるべき点などは?

残念ながら、まだ十分にガイドラインを提起できるところまで行っていない。

ただ、Facebookはプライバシーの扱いをたびたび変えたり、そのたびごとに問題になっている。海外の市民運動での対応から学べることは多いと思う。

問: Twitterを始めると時間が取られてしまって、それは避けたいと思って始められない。

Twitterの使い方にはいろいろなものがある。常に他人とずっとやりとりをし続けなければならないと思う必要はない。自分のスタンスをはっきりさせて、そのスタンスでTweetしていくことは十分ありえるので、時間を大幅に使わないで使っていく方法はあるだろう。

2万人いるメールマガジンよりも、1000人足らずのフォロワーのTwitterアカウントの方が効果を上げることは十分ありうる。1000人のフォロワーは情報豊かなNGOであれば1年あれば得ることは可能。2万人の講読者を得ようというのはそう簡単ではない。その点からもTwitterの可能性は高いと思う。

曲がり角にきたブラジル

 急激な経済成長を続けるブラジル。その姿の激変を10年前に誰が想像できただろうか?かつての債務大国は今やアフリカ開発のリーダーになりつつあり、開発援助国に変身した。かつては石油輸入国。今や、プレソルト層という深い地層からの海底油田開発で一挙に巨大産油国になろうとしている。製糖産業とともに衰退すると思われていたサトウキビ農園は今や遺伝子組み換えを駆使したバイオ燃料を世界に輸出する生産拠点になろうとしている。

 外交的にも米国との関係を保ちつつも、イラン外交やアフリカ外交では独自性を見せ、エイズ対策や反飢餓政策では発展途上国のリーダーの1つになった。

 国内の反貧困政策では家族支援プログラムを実施。乳幼児死亡率を激減させ、貧困層の生活向上を成功させており、支持率は今年5月の段階で70%を超えている。任期満了が近い政権でこのような高い支持率を得ている政権はまれではないだろうか?

深刻化する環境問題、地方の搾取

 しかし、この高い支持率と経済成長の陰で、深刻な問題が進行しつつある。それは都市から離れた地方から見ればよりくっきり見えてくる。

 2つの問題を挙げてみよう。1つはベロモンチダム開発、もう1つは森林法の改訂である。前者は東アマゾンの奥地に世界第3位となる巨大ダムと水力発電所を作るという30年前の軍事独裁政権時代に作られた計画だが、先住民族の強い反対のもと、建設は阻止されてきた。1989年にはスティングと先住民族の世界的な反対運動にまで発展している。 

 ブラジルでは大規模停電が頻繁に起き、成長を支えるためと称して大規模な発電計画が出されている。ベロモンチダムはその目玉。ベロモンチダム計画の有効性には専門家からも疑義が表明され、映画『アバター』の監督ジェームズ・キャメロンもベロモンチダム反対運動に参加。それにも関わらずルラ政権はダム建設を強行する構えだ。建設が強行されれば、それでなくとも破壊の進む東アマゾンに大きな影響を与え、先住民族の生存を危うくすることは避けられないとみられている。しかも、それを進めるのが軍事独裁政権や反動地主層ではなく、労働者党政権なのである。

アマゾン森林を危機においやる森林法改訂

 さらに森林法改訂である。1965年に制定された森林法は水源などの保護林の規定を持ち、これまでブラジルの森林を開発から守る憲法のような存在であった。この森林法の規定を大幅に緩和する改訂案が昨年出され、今年の7月に委員会通過。この改訂が利するのはアグリビジネスだけだと、MST(土地なし地方労働者運動)や環境団体、先住民族の支援団体をはじめとするNGOは連携して反対運動を展開したが、この法案を提案したのはなんとブラジル共産党(PCdoB。もう1つのブラジル共産党PCBは反対)。労働者党は党としては反対の立場を取ったが、議会をコントロールする大地主層に押し切られてしまった。

 アマゾンの破壊は大きな気候変動をもたらす危険があり、この森林法改訂は地球大に大きな影響を与える可能性がある。

 今年10月、ブラジルは大統領選を含む総選挙がある。しかし、ベロモンチダムの問題や森林法改訂の問題は争点になりにくい。先住民族は2億近いブラジル人口の20万〜30万を占めるにすぎず、これまで彼らと共にいた労働者党政権は現在は敵対的。森林破壊で脅威にさらされる地方労働者や小農民の声もまた届きにくい。先住民族や森林保護を掲げる緑の党で元労働者党政権環境相マリーナ・シウバ大統領候補は労働者党の候補に大きく離されている。労働者党政権の実現で世界的に注目されたブラジルの民衆運動は大きな難問にぶちあたっている。

ベロモンチに関するTwitterアップデート一覧

森林法に関するTwitterアップデート一覧

電子書籍を作ってみた

といっても、電子書籍のフォーマットの1つ、ePubを使って、データを流し込んでみただけ。

どんなことができるのか、どんな可能性があるのか、何がやりにくいのかを知りたかった。

結論として、ePubは基本的にWebを作る手法がそのまま通じるところが多く、敷居は低い。WebのコンテンツをそのままePub形式にコンバートしてダウンロードさせるとかはそう難しくないだろう(たぶん、もう誰かがやっているはず)。

あれこれ気がついたこともあるのだけど、まずは初めての電子書籍『Twitterで見たブラジル』(174Kb)をダウンロード。読むためにはePubを読める電子書籍リーダーが必要。

ちなみにiPod Touch 上のStanzaでの動作確認はやってあります。

追記 11:45 Firefoxのaddon、EPUBReaderを入れてみたけど、索引へのアンカーリンクが機能しません。アンカーはタグ文字をurlencodeしました。Stanzaでは動いてくれたのでおkかと思ったのだけど、Firefox上ではそうではなかったようで。Perlのスクリプトで索引付けをしたのだけど、日本語をアンカー用にASCII文字にするのはurlencodeでは十分でないとすると、困ったもんだ。英語だったらシンプルなスクリプトで処理できるのに、またもやここで面倒な処理しなければならないか…。

JCA-NETワークショップ

リンクしようと思ったのだけど、まだどこにもWeb上に出ていないので、載せてしまいます。関心のある方ぜひ!


(転載自由:関心のある方やMLに是非ご紹介ください) 無事終了しました。

報告書きました
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8/2 JCA-NETワークショップ
ネットの力をフルに使いこなそう!
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インターネットへのアクセス人口は世界中で10億人を軽く突破し、いまやコミュニケーションの必需品の位置を占めるまでになりました。インターネットが出発した当初はメールのやりとりでしたが、その後ウエッブを用いた多様なコミュニケーションが急速に普及し、動画やストリーミングがあたりまえになってきました。twitterのつぶやきが世論を左右したり、世界で起きている事柄を当事者みずからがネットを通じてライブで世界中に中継することが現実に可能となった時代に私たちはいるのです。
こうしたネットの「力」は、機関誌やミニコミといった紙媒体による情報発信の回路しかもたなかった市民運動や草の根の民衆運動にとっても大きな影響をもたらしてきました。いまではウエッブやメールアドレスをほとんどの団体が持ち、ネットを「活用」しようとしてきましたが、大企業や政府のようにまだネットの「力」を十分に活用しきれていないのも事実です。
メーリングリストの限界を感じていたり、ウエッブの発信が思うようにいかないと悩み、インターネットをもっと有効に活用したいと考えている市民運動や民衆運動は多いのではないでしょうか。しかし、実際にネットを今以上有効に活用するということになると技術的な問題など「しきい」が高く、実際の活動に活かしきれないままになっている場合が多くみられます。
今回のワークショップでは、市民運動や民衆運動でインターネットを今一歩有効に活用するための具体的なノウハウとそのために必要な事柄について、具体的な事例をとりあげながら、ほんのちょっとした努力と工夫でここまでやれる!ということを参加者のみなさんと経験し、解決策をさぐる機会にしたいと考えています。
●日時 8月2日(月)午後7時から
●お話 印鑰智哉(いんやくともや)
印鑰さんは、JCA-NETをはじめとして、市民運動への普及活動やNGOでの情報発信活動、国境を越えた市民活動に携わってきた方です。印鑰さんの豊富な活動経験をふまえたワークショップを予定しています。
司会 小倉利丸
●参加費 500円
●場所 ピープルズプラン研究所会議室(会場へのアクセスは最後をご覧ください)
【住所】〒112-0014 
東京都文京区関口1-44-3信生堂ビル2F
【会場の電話】
Tel:03-6424-5748
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主催 JCA-NET http://www.jca.apc.org/
03-5298-7330
今回の企画については下記へご連絡ください
070-5553-5495(小倉:JCA-NET)
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▼会場(ピープルズプラン研究所)へのアクセス
【地下鉄から】
◎地下鉄有楽町線「江戸川橋駅」1-b出口徒歩5分
◎地下鉄東西線「早稲田駅」1番出口徒歩15分
◎地下鉄東西線「神楽坂駅」2番出口徒歩15分
[江戸川橋駅(有楽町線)からの行き方]
江戸川橋駅1-b出口を出て、左手にマクドナルド、ドトールコーヒー、ファミ
リーマートなどを順に見ながら大通り(新目白通り)を5分ほど歩くと、「一
休橋入り口」という交差点があります。そこを左に曲がって、道路の左側にあ
る3つ目のビルです。1階は「ミヤ校正」さん、2階がピープルズ・プラン研究
所です。
 ※江戸川橋駅は、改札から1-bの出口までににも3分かかります。
地図

報告書きました

野中広務・辛淑玉『差別と日本人』

野中広務氏はいうまでもなく自民党幹事長を務めた保守政治家。さらに言うならば、90年代後半、相次いだ盗聴法、国旗国歌法など市民社会に対する国家統制を強める反動立法の立役者である。

野中氏が部落差別に苦しみながら政治活動してきたことは最近になって知った。

この本は対談本というよりも辛淑玉氏が野中氏を問いつめる本と言った方がいいと思う。

問いつめると言っても、辛氏は決して野中氏の人格を攻撃しているわけではない。単刀直入に核心をとらえて、野中氏自身、意識的にあるいは無意識的に隠してきた本音に迫っている。

単なる言葉による問い詰めではなく、その辛氏自身が味わってきた苦しみをも隠すことなく、曝すことで、野中氏の心の防御も解かれていく。辛氏の野中氏の分析は冷静さを失わず、驚くほど明瞭だ。徹底的に批判された野中氏はその批判に抵抗を見せない。辛氏の批判が野中氏に対する攻撃ではなく、共に差別に人生を切り刻まれてきた同志的なものであるがゆえだろう。

辛氏の問題の核心に切り込んでいく力は見事なものだと思う。その力によって、「魂に触れる」対話が生まれた。野中氏にとっても、辛氏に徹底的に批判をされた後にもある種の満足があったのは間違いない。たぶん、野中氏にとって辛氏は魂のレベルでもっとも近い人の一人となったはずだから。

21世紀を迎えても差別が再生産される日本。その実態を知識としてではなく、生身をもった人の生き様から知ることには鮮烈なインパクトがある。

しかし、なぜ、野中氏があの反動立法の中軸となってしまったのか? 日本の戦後政治が理念を持たず、自民党内での利害調整に終始した、その自民党で卓越したフィクサーだった野中氏が中枢に上っていってしまったことが野中氏にとっても、日本にとっても不幸であったということであろうか。

なぜ、この対談があと15年前に実現できなかったのか、もし実現できていたら、国旗国歌法も盗聴法も存在していなかったかもしれない。

しかし、それは不可能だった。さらに言うなら、野中氏が本来活躍すべき場は、自民党の中にも社会党や共産党の中にもなかったのかもしれない。

問われるべきは日本の政治文化の貧困である。それを知る上で欠かせない本だ。

アクティビストのためのTwitter講座! 入門編

アジア太平洋資料センター(PARC)でTwitter講座をやりました。

ちょっと体調不調な上に、自前のPCを忘れるという失態もあり、来ていただいた方には申し訳ないことをしてしまったのだけど、これを機会にTwitterを活動に役立てる人が出てくれたのは本当にありがたいことです。

当日使った資料です。

PowerPoint版
PDF版
Slideshareにも入れてみました。
Slideshare版

もっとましなものにしていきたいと思います。

映画アバター

AVATAR映画アバターの一シーン

映画アバターを見た。

映像を見ていたら、映画のストーリーとは無関係に、脳裏に突然、東アマゾンの壮大な森が浮かんできた。

地元の人びとといっしょにトラックの荷台に乗って東アマゾンの奥地に進んでいた時だった。突然現れた渓谷。それはグランドキャニオンを荘厳な森で包んだような絶景だった。思わず、「止まってくれ。写真を撮らせてくれ」と心の中で叫んだ。こんな景色、こんな美しい森、見たことがない。でも外国人は僕一人、他は地元の人。地元の人にとっては見慣れた光景。トラックは僕の意志とは関係なく、悪路を高速で進み、激しい揺れの中でカメラの電源をオンにすることすらできないまま渓谷は姿を消した。その渓谷は僕の心の中に残るのみ。

その渓谷が映画の中で何度もよみがえってきた。映画の中に現れる幻想的な森林に劣らない圧倒的な存在感だった。

なぜ僕はここの地に足を運んだかのか。東アマゾンの巨大な開発プロジェクトが進み、東アマゾンの自然と先住民族や小農民の生活を破壊し始めており、その開発に関して、異議を唱える国際会議が開かれた。1994年頃だろうか。その会議の後、会議から戻る人びとのトラックに乗せてもらい、奥地まで足を踏み入れたのだった。

東アマゾンには鉱物資源が豊かにある。カラジャス鉄鉱山の鉄鉱石、アルミ、そうした資源を求めて世界の投資が集まり、巨大な開発が70年代から進んだ。その結果、広大な地域で豊かな森林が破壊された。その荒廃が進んだ地域にさらにユーカリや大豆を植えるという巨大経済開発が計画され、その計画が壊滅的に環境を破壊し、また周辺地域の先住民族や小農民の人権が損なわれるという危惧が生まれていた。この計画には日本政府の経済開発援助が使われている。

日本はかなり前からこの地域の開発に関わっている。しかし、日本で十分に東アマゾンでの環境破壊、先住民族や小農民の生活環境破壊については十分知られていない。ブラジルから報告を送った。

そのメールがNHK向けにドキュメンタリーを作っているプロデューサーのもとに届き、NHKで番組を作りたいというメールをもらった。そこで、この会議やこの地域の訪問を通じて知り合った人たちの連絡先をすべてそのプロデューサーに渡した。

取材チームがブラジルに渡り、どれだけ時間がかかったろうか、プロデューサーから重いトーンのメールが届いた。NHKの上からの圧力で番組の筋書きがまるっきり書き換えられてしまったというのだ。

放映された番組には環境破壊や先住民族や小農民の人権については何の言及もなかった。そればかりか、僕が紹介した人びとの映像は、「日本の援助を通じてブラジルの小農民も生産性を考えるようになりました」と開発を賛美する文脈で使われていた。まったくありえない筋書きだった。どうして、巨大な開発によって、追い出される小農民が生産性について学んだ、と言えるのか?

アバターの主人公がスパイとしてナヴィの中に潜入して、ナヴィの世界の情報を盗み出そうとしたように、僕も外部のスパイとして、アマゾンに入り、その地の人びとを裏切った。アバターにはその後の物語があるのだけど。

かの地に、ベロモンチダムという計画通り建設されると世界第3位となる巨大ダムと水力発電所が今、作られようとしている。作られる電力は地域に住む人のためではなく、アマゾンのアルミニウムを精錬されるためにその多くが使われる。この地には多くの先住民族が伝統的な生活を続けている。このダムが作られてしまえば、先住民族の生活を支える川や森林は大きな影響を受けざるをえなくなる。

この開発に対して何をすべきか?

「国民」ということばを使う前に

最近、やたらと「国民」ということばを目にすることが多くなった気がする。

このことばが歴史的にどんな問題をはらんでいるか共有されることが最近少なくなっているのかもしれない。

そこでこのことばの使われてきた経緯を振り返りながら考えてみたい。

日本国憲法で改ざんされた people

戦後政治でいわれる「国民」の基礎はやはり日本国憲法前文だろう。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。「日本国憲法前文」

私が日本国憲法にどんな態度を取るのかというと、戦後民主主義の源泉として、尊重することは言うまでもない。しかし、すべてあるがままに受け取ることはできない部分も存在する。憲法制定過程の中でないがしろにされ、きわめて貴重なものを封じ込めるような形で日本国憲法が生まれてきたからだ。しかし、そう読み解くことは決して、日本国憲法そのものを否定することにはならないだろう。むしろ日本国憲法が生まれてきたその時代の精神、要請を引き受けることになると信じている。

「国民」ということばは「国」と「民」という二つの文字から成る。国家を意味する国と人民を意味する民ということばを結びつけた外国語はあるだろうか? nationalということばが思い浮かぶかもしれない。それでは有名なリンカーンのことばとされる government of the people, by the people, for the people の people を national で代替するとどうなるだろうか? たぶん、このことばの輝きは失われてしまうだろう。

民主主義思想はリンカーンや米国の歴史に固有なのではない。人権思想と民主主義の思想は欧米白人社会の独占物ではなく、先住民族の社会のあり方こそがむしろ君主制に支配されていたヨーロッパの人びとを刺激して、自由主義思想が生まれた、という魅力的な説もある(星川淳『魂の民主主義―北米先住民・アメリカ建国・日本国憲法』)。戦後の日本は人類普遍の原理として民主主義を受け入れる、というのが憲法前文の意味しているところであり、根本的に重要なところだ。

この憲法が制定される過程を歴史家ジョン・ダワーは、以下のように描く。

反動的な修正の動きとしては、政府や国会は、在留外国人法に基づいて外国人にも平等な保護を提供するという条項の廃止に成功し、GHQの当初の意図を掘り崩した。この動きの基礎は、佐藤達夫が、翻訳マラソン直後の数時間で作り上げたものである。彼はこうした保護の提供は憲法草案の他の個所で保障されているから重複であるという理由で問題の条文の削除を求めるという、民政局にとって一見あまり重要でないように見える要求を行った。アメリカはこれを承認したが、それは日本側が訳文づくりを通して進めていた草案の骨抜きによって、他の保護条項から外国人を締め出していたことに気がつかなかったからであった。ここで鍵となる言葉は「国民」であり、これは憲法にいう「the people」をよりナショナリスティックな意味へと近づけるために選ばれた言葉だった。そもそも、保守派が「国民」という言葉を使ったのは、人民主権の意味合いを弱めるためだけでなく、国家が保障する権利を日本国籍を持つ人々だけに制限するためでもあった。アメリカ側は「すべての個人all persons」が法の前に平等であることを認めさせようと意図しており、GHQ草案の中には人種や国籍による差別を明白に禁止する文言が含まれていた。しかし佐藤たちは言葉のごまかしを通じてこのような保障を削除してしまったのである。「国民」とは、「あらゆる国籍の人々all nationals」のことだと占領軍には主張し、それによって実へ政府は、台湾人やとりわけ朝鮮人を含めた何十万という旧植民地出身の在日外国人に、平等な市民権を与えないようにすることに成功したのである。この修正の持つ露骨な人種差別性は、その後の国会審議での「用語上」の修正をへてさらに強化されていった。これが1950年に通過した、国籍に関する差別的な法案の基礎となったのである。(『敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人』 ジョン・ダワー、P159)

年表的にざっとたどってみると、1947年5月2日、日本国憲法が発布される一日前、最後の明治憲法下での政令で「外国人登録令」が発布され、それまで植民地化によって日本国民とされてきた朝鮮人、中国人(台湾人)を「外国人とみなす」と一方的に国籍を否認し、戦後民主主義の権利者から排除した。これは火事場泥棒的な暴挙であった。

当時は朝鮮半島や台湾、中国での主権がまだ確立しておらず、その意味では在日朝鮮人、中国人(台湾人)は潜在的には2重国籍を持ち、祖国での主権回復と共に自らの権利と国籍を選び取る権利があったはずだ。

戦後政治の中で、外国人に対する人権の保障は徹底的に無視された。人には生まれながらにして人権があり、それを国家は保障しなければならない、というのが近代民主主義の考え方であり、日本国憲法もまた「人類普遍の原理」に基づくものであるとすれば、戦後の歴史に見るものはそれからのまったくの逸脱である。人権を認めるか否かは、国家の判断である=法務省官僚が決める、というまったく民主主義とは相いれないものへとねじ曲げられていってしまった。

日本の敗戦はなによりも、民主主義を学び直す機会であったはずだ。戦後の歴史の中で主権者である「国民」とそれから排除される「外国人」という分断を許してしまった私たち日本人たちは残念ながら外国人の処遇の問題を自らの民主主義の問題として受け止める感性を育てることができなかった。

官僚が「外国人」への生殺与奪の権利、すべてを決める権力者として存在し、それを主権者たる「国民」が何のチェックもないまま長期においてのさばらせてしまったことの結果として、日本の官僚支配は世界に類をみないものとなってしまった。そして、官僚支配が現在の日本の社会的な停滞をもたらした。これはすべての日本人にとって大きな損失となった。

主権者として、自由を享受し、権利を行使すべきであった私たちはその本来の自由や権利を享受することなく、官僚に決められた枠の中で動くことが民主主義と勘違いして生きてきた。

戦後政治の中で「国民」とはこのようなことばとして確立してしまった。

そもそも近代国家が生まれる前から民はいた。また近代国家を形成していない民もいる。また今後、世界のグローバリゼーション化によって「国民」のカテゴリーに入らない隣人は増えていくだろう。「国民のための国家」では、そこに含まれる人たちと排除される人たちの間で社会が分断されてしまう。豊かな社会を築くことがあらかじめ閉ざされているということにならないだろうか?

主権者とは民主主義を成立させるもっとも根本的な存在だ。その主権から特定の人びとを排除するということがその民主主義にとってどれだけ危険なものであるか。だからこそ、民主主義を宣言した日本国憲法を正しく読むためには、われわれは「国民」ということばに依拠するわけにはいかない。

在日外国人への権利を否定している日本の政治への疑問が一般の日本人の中に芽生えてきたのは、在日外国人による長い闘いがあってこそであり、日本人の中でこの問題を担ってきた人びとは残念ながらきわめて少数派であった。

「国民」のオルタナティブは?

それならば「国民」に代えてどんなことばを使うのか、という話しになる。実際に、オリジナルの「人民」にすればいいかというとなかなかそうはいかないだろう。しかし、試しに、日本国憲法全文の「国民」を「人民」に書き換えて読み直したらどう聞こえるかは一度試してみていい。

まず、この社会に住む人びとが主権者であり、その人たちのために国家を機能させるのだ、ということがイメージできなければどんなことばを用いても変わりないだろうから。

現在私たちが持っているボキャブラリーはあまりに限られているかもしれない。たとえば、「市民」はよく使われる。なかなかいい響きのことばだと思う。でもどこか特殊西洋的で、お高く止まっているという感じがしなくもない。それに対して「民衆」ということばは文学的だけど、「市民」ほど西洋的刻印は少ないようにも思える。しかし、たとえばチラシをまくのに、「民衆のみなさん」とか書けない。一方、「住民」はそのような気取りはない。しかし「住民運動」と書けば、一定の限定された運動しかイメージしてもらえないかもしれない。

どんな文脈にもしっくりすることばは私は残念ながら今のところ思いつかない。しかし、書くときは必ず「国民」ではないことばで表現しようと思う。また同時に憲法制定時に日本の保守勢力がGHQを欺く方便として使った「『国民』とは、『あらゆる国籍の人々』」(上述)をだまし文句で終わらせるのではなく、社会のあらゆる場面で実現していくことも必要だろう。Peopleの訳語に困る苦労はこの日本の特殊な歴史ゆえであり、克服するのは1つの歴史的な事業だと思う。

それは主権者としての私たちを確立するプロセスだろう。