A SEED JAPAN連続セミナー 「生物多様性を知る×伝える×守る 情報通信技術の活用術」その1

9月25日、A SEED JAPAN連続セミナー「生物多様性を知る×伝える×守る情報通信技術の活用術」で話をさせていただきました。

うまくブレーンストームの素材を出して、A SEED JAPANの行動計画に貢献したいところだったのだけど、ちょっと思うようにいかず、せっかくよんでいただいたA SEED JAPANの方たちには申し訳なかったのだけど、どんな話をしたのか簡単にまとめておきます。

これまでの国連関連の国際会議でNGO、市民運動の方でどうインターネットを活用してきたのかを見てみます。

1992年リオデジャネイロ国連環境開発会議(UNCED)

ちょうど、私はアジア太平洋資料センター(PARC)とブラジル社会経済分析研究所(IBASE)の交換プロジェクトでリオデジャネイロで活動していて、日本からの投資がブラジルの社会・環境にどのような影響を与えているのかを調査していました。

80年代からアジア太平洋地域で紙パルプなどの原料にするために大規模なユーカリ植林が大きな社会問題となりつつありました。しかし、このユーカリ植林は70年代、日本のODAがつぎ込まれてブラジルで大規模に行われています。それが現在、南の国々に広げられていることがわかり、UNCEDの会議の機会を活用して、ユーカリ植林問題に取り組む国際ネットワークを作ろうと考えました。

何も組織的バックアップもなく、そのようなことを提案するというのは今考えると、突拍子もない若気の至りという感じでしたが、NGO会場が設けられたグローバルフォーラムでよびかけのチラシをまき始めました。しかし、この会場を訪れる人の数、3万人といわれ、一人でチラシをまいたところでたかがしれています。

そこでIBASEの事務所に戻り、APC(Association for Progressive Communications、進歩的コミュニケーション協会)の電子会議室に提案を書き込みました。このAPCというのはブラジルをはじめ、アルゼンチン、英国、米国、オーストラリア、南アフリカなど各地を相互につなぐいわばNGO、市民運動のためのパソコン通信ネットワークといえるもので、インターネットの機能を先駆的に世界各地の市民運動に提供したものです。1992年の段階ではインターネットはまだ市民には遠い存在でした。

電子会議室に書き込んだこの提案には即反響が来ました。カリフォルニアの大学教授からは、ユーカリを植えると他の植生が育たなくなってしまう、カリフォルニア州ではユーカリ伐採とその土壌汚染に取り組んでいる、ということで、その取り組みを知らせてきてくれました。

そして、UNCEDの最終日、ホテル・グローリアのロビーに、ブラジル、ウルグアイ、インドネシア、タイ、フィリピンなどのNGOやThird World NetworkやGreenpeaceなどの国際組織も入って、単一性植林問題国際ネットワークが立ち上がってしまったのでした。

情報コミュニケーション技術(ICT)が市民運動にとって武器になる、ということはこの時に痛感しました。この時のネットワークは市民社会に広く訴えるような(広報的)機能はありませんでしたが、世界各地のNGOを相互につないで情報交換できる仕組みがあるということは特に日本から参加した人たちには大きなショックだったろうと思います。この時期、日本にはNiftyServeやPC-VANなどのパソコン通信サービスはありましたが、まだお互いのユーザー同士でメールを交換することすらできず、閉じられたシステムだったからです。

海外のNGOの中にはすでにAPCの会議室を通じて、リオの会議に参加する前に情報交換を済ませて、リオの会議ではいきなり議論を始めるところが少なからずありました。しかし、日本の多くの参加者にとってはいきなりでしたから、言語のハンディキャップ以上に情報のハンディキャップを負っての参加になってしまいました。

実はAPCの本部は私が働いていたIBASEにあり、私はIBASEのスタッフといっしょに働きながら、日本にAPCのシステムを作ることの必要性を感じ、帰国後、さまざまな人との協力のもとに、それはJCA-NET(http://www.jca.apc.org/)という形で実現することになりました。

1997年気候変動枠組み条約COP3京都会議

JCA-NETが設立されてすぐに開かれた京都会議、GEIC(現GEOC)の支援を得て、NGO情報発信支援プロジェクトに取り組みました。これは国連会議が行われた会議場に100台を超すPCのLANを組み、会議に参加するNGOが声明など簡単にインターネットを通じて情報発信できるようにする仕組みでした。

事前の準備もままならず、という感じでしたが、最終的に国内外の46団体のメッセージを発信することができ、海外のAPCからもこのプロジェクトのおかげで京都会議をモニターできたよ、と評価されました。

しかし、この仕組みも一方的な告知のみで、会議場の外の人たちはそれをモニターするしかできなかったものでした。

1995年頃から日本でもインターネットが本格的に普及し始めていました。当時はメーリングリストも普及していましたが、メーリングリストも参加者のみが情報を見られるという点で同じように閉じられたメディアであったと言えるでしょう。

インターネットの地殻変動

2000年を過ぎることからインターネットに大きな変動がおきます。ブログが生まれ、さらにSNSが生まれてきました。これは限られた人だけが情報発信を担っていた制限を解き払い、市民が参加する可能性を大きく広げてくれたと言えます。

市民運動としてはこの地殻変動は大いに活用していくべきでしょう。次はどのように活用していくかを考えます。

(続く)

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